「トラウマはない?」確信犯で行こう!

「トラウマはない?」確信犯で行こう!

「トラウマはない?」確信犯で行こう!

昨晩「幸せになる勇気 自己啓発の源流アドラーの教えⅡ」(ダイヤモンド社)発売記念イベントである著者・岸見一郎先生、古賀史健さんと編集者・柿内芳文さんによる対談を聞きに行ってきた。

対談部分も素晴らしかったが、読者との掛け合いである質疑応答が、スリリングで輪をかけて楽しかった。「Amazonに書いた書評にたくさん星がつくと嬉しい。これは承認欲求なのか?それとも貢献感なのか?100万部以上売れた三人が感じているのはどちらか?」などの質問の数々は鋭く、また、その答えからも多くを学べた。ライブならではのやりとりだ。

そんな中で、私が「お!?」と思ったのは、次のやりとりだ。「本書の中でアドラーがカウンセリング場面でクライアントがこれから話す内容について三角柱を示します。『悪いあの人』『かわいそうな私』『これからどうする』の3つが描かれています。話す際にいずれかを示してから話させる、というものです。岸見先生は実際にこの三角柱を使うことがあるのですか?」

私は思った。「そんなわけはない。あまりに露骨でクライアント(相談者)を刺激し過ぎるだろう」そう思った。しかし、岸見先生の答は違った。「はい。使うことがあります」。私は驚いた。えー、嘘。本当?

しかし、その後の解説において三角柱についての言及はほとんどなく「これからどうする」が大切だ、との主旨が続いた。うがった見方かもしれないが、私は「本当は使っていないのだろう」と感じた。岸見先生がおっしゃりたかったのはこうではなかろうか。つまり「三角柱を実際に使うことはないが、カウンセラーは『悪いあの人』『かわいそうな私』の物語を延々聞いてはならない。一緒に涙してはならない。そうではなく『ではどうするか?』に集中すべきだ」これが主旨である、と。

その際に三角柱を使うかどうかは枝葉末節のことだ。だから、そこはあえて「はい、使います」と言い切ることが大事だ。そんな覚悟をして先生はあえて「確信犯」的に言い切ったのではないか、と推測したのだ。

なぜならば、同じ物書きと講演家の端くれで末席を汚させていただいている私は完全に「確信犯」であるからだ。そして、確信犯であることに揺らぎがない。あたかもアドラーが講演の聴衆から「あなたの言っていることは常識ではないのか?」と質問され、それに対して「常識のどこが悪いのだ?」と返したかのように、私もこう返したい。「確信犯でどこが悪い?」と。

岸見先生が「三角柱を使います」と言い切ったのは(実際には使っていないという私の推測に基づき以下論を展開)決して先生が格好をつけたからではない。先生は聴衆に対して「最も大切なことを届ける」ことを優先したのだ。そのためには枝葉末節な「三角柱」などどうでもいい、と割り切ったのだ、と私は推測する。私もこのような言い切り、単純化を確信犯的によくするからだ。

たとえば私はエリック・バーンによる「過去と他人は変えられないが、未来と自分を変えることはできる」という言葉を引用する。すると、読者のうちの数名が必ずこう混ぜっ返してくる。「過去だって変えられる。過去をどのように解釈・認知するかという視点が変われば、過去の意味づけは変わる」と指摘するのだ。

まさにその通り。私もそう思う。しかし、それを言ってはいけない。少なくてもこの場で言うことは望ましくはない。なぜならば、話が複雑になり「届けたいメッセージが届かなくなってしまう」からだ。だから、私は確信犯的に、それには触れないでおく。シンプルに、伝えたいことだけを「ポン!」とその場に置くのだ。岸見先生がおっしゃった「三角柱を使う」もそれと同じ意味だったのではなかろうか。私はそう解釈した。

それと同じことが100万部を突破した大ベストセラー「嫌われる勇気」の有名な一節にもある。「過去は関係ない。トラウマはない」という有名な一節である。しかし、これは明らかに言い過ぎである。

私がアドラー心理学を学んでいる師匠の有限会社ヒューマン・ギルド 代表取締役岩井俊憲先生に教えていただいたのであるが、アルフレッド・アドラーの次女のアレクサンドラ・アドラー(1901〜2001)はPTSD(心的外傷後ストレス障害)研究の先駆者であり、1942年11月28日のボストンのナイトクラブ・ココナツ・グローブで起きた火災の生存者に対する調査研究の中で、被災者の50%が不安や罪悪感、恐れを抱いている、との研究を発表している。つまりアドラーの次女アレクサンドラは、はっきりと「トラウマはある」と言っているのだ。

私は、本件も岸見先生と古賀さんは、確信犯的にわざと言い切っているのだと思う。実際は「影響因」として過去は存在する。しかし「決定因」としては未来の目的がより強く影響する。過去の影響因100%ではない。そういう意味だろう。しかし、真実を正確に語ったのでは「届かない」のである。そこで「過去は関係ない。トラウマはない」と言い切った。これは演出であり編集である。そう推測するのだ。

上記はすべて、私の勝手な憶測である。そして、私は今も半ば開き直りながら、こう思っている。「確信犯でどこが悪い?」と。まずは伝えたいメッセージをきちんと届ける。その先をさらに知りたい人、「本当に正確なこと」を学びたい人は、その後で学べばいい。私はそう「確信」してものを書いている。

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