小倉広 オフィシャル・ブログ http://blog.ogurahiroshi.net ビジネス書作家、講演家、アドラー派の心理カウンセラー小倉広のオフィシャル・ブログです。 Thu, 28 Jan 2021 02:28:50 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.5.14 http://blog.ogurahiroshi.net/wp-content/uploads/2015/12/cropped-ogura_profile-32x32.jpg 小倉広 オフィシャル・ブログ http://blog.ogurahiroshi.net 32 32 スクールカウンセラーになりたい http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1134 Thu, 28 Jan 2021 02:28:48 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1134 今の仕事である研修講師を引退したら、スクールカウンセラーになりたい。それが夢であり、憧れだ。

現在、活躍されている方に
「そんなに甘い仕事ではないぞ」
「学校教育経験もないあなたには無理だ」
と叱られそうだが、憧れなので許してほしい。
 
現在、企業研修講師に携わっている僕は常にジレンマを感じている。
 
受講者さんや人事の方がいつもおっしゃる、あのジレンマだ。
 
「部下育成をするべきなのはわかる。けれど売上と納期のプレッシャーがあるから、人を育てる余裕がない」
 
このセリフを聞くたびに「またか・・・」と思う。
 
わからなくはないジレンマだが、それをいいわけにして、育成から逃げているように感じてしまうからだ。

学校教育、子供の教育にはこのジレンマがない(ように思える)
 
だから、憧れなのだ。

実際には、学校教育にだって、たくさんのジレンマがあることは想像がつく。
 
しかし、僕の夢や憧れの話だから、そこは、まあ、夢想させていただきたい。
 
もう一つの憧れがある。
 
それは、援助する対象が、40歳を過ぎたおじさんではなく、純粋で可能性に満ちた子供たちであることだ。
 
こんなことを言うと
「おじさんに可能性はないのか!」
「おじさんは汚れている、というのか!」と叱られそうだが、まあまあ、自由に夢想させていただきたい。

で、ここまで語っておいて、結論が真逆に行くようであるが、しかし、現実は違う着地になるのではないか、と思っている。
 
やはり、僕のお役目は最後まで産業界分野。つまりは、同じカウンセラーでも企業のお手伝いになるのだろうな、という予感めいたものがあるのだ。

なぜならば、明らかに僕のキャリアは産業分野だからだ。
 
もちろん、強い情熱を持って仕事を探せば、スクールカウンセラーになることができるかもしれないが、やっぱり、僕は引退後に、産業分野の企業カウンセラーを目指すだろう。
 
つまり、それは、おそらく自分の意思だ。
 
スクールカウンセラーに憧れるのは嘘ではない。
 
でも、それ以上に、僕は誰かの役に立ち、それを感じたい、という信念がある。

学校教育でもお役に立つ自信はある。

しかし、それ以上に、僕はきっと産業界に必要とされ、それが僕の喜びになるだろうと感じている。

だから、僕は引退後に「スクールカウンセラー、憧れるなぁ」と口にしつつ、企業内カウンセラーの道を探すだろう。

それが僕のお役目であり、お役目に従うことが幸せだと思うのだ。

]]>
なぜ僕はキャンプで手抜き料理を作るのか? http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1129 Wed, 16 Dec 2020 03:27:30 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1129 お友達とキャンプに行ったら告白された。

「ヒロさんのことだから、相当、本格派の料理を作るんだろうな。時間がかかるのを覚悟しよう、と思ってたんです」

ところが僕が冷凍食品を温めるだけ、とか、焼くだけ、のばかりを作るものだから拍子抜けしたのだという。

ちなみに作った料理はこれだ。

【 晩ご飯 】

・パン屋さんのピザパンをホットサンドメイカーで両面焼いただけ

・既製品のシューマイをホットサンドメイカーで両面焼いただけ

・冷凍食品のブイヤベース温めただけ

・冷凍食品のクラムチャウダー温めただけ

・サーロインステーキ炭火で焼いただけ

・焼き椎茸、焼きアスパラ醤油かけただけ

・セブンイレブンのチリコンミートととろけるチーズを食パンで挟んでホットサンドメイカーで焼いただけ

【 朝ごはん 】

・野菜と豚肉を鍋に入れてほうとう煮ただけ

【 昼ごはん 】

・鍋に冷凍ミックスシーフード入れてオリーブオイルで炒めて白ワイン入れて、下茹でなしのスパゲティ半分に折って入れただけ。五分で完成のパスタパエジャ

どれも一品五分程度。

徹底的な手抜き飯だ。

しかも、うまい。

一方で手抜きしないところもある。

朝のコーヒーはわざわざ豆を挽き、湯の湧くのが遅いアルコールストーブで沸かす。

焚き火に使う薪は、広葉樹と針葉樹に分け、針葉樹を焚きつけ用に細かく斧と鉈で割る。

手間を惜しまないのだ。

では、手抜きとこだわりの両極端はどのように使い分けているのだろう。

少し考えてわかった。

作業そのものが楽しいか、得られる成果が楽しいか、いずれか?だ。

料理について考えてみよう。

僕が得たいのは結果としてのおいしさか、手間暇のプロセスか、どちらだろうか。

明らかに前者。おいしさだ。

では、焚き火は?

言わずもがな。焚き火は暖かさという結果を得るためにするのではない。

手間暇を楽しむためにやるのだ。

暖かさだけを得るのであれば、夏の焚き火は意味がない。

冬ならばストーブで事足りる。

つまり、キャンプでの手抜きの基準は、結果はいざ知らず、プロセスを楽しめるかどうか、に集約されるだろう。

これって、仕事選びにも通底するな、と思った。

仕事の成果である、給料がほしいのであれば、手間暇を惜しむだろう。

仕事のプロセス自体が楽しいのであれば、手間暇を楽しむだろう。

ありがたいことに僕は仕事のプロセスも結果も楽しんでいる。

顧客から依頼されていないのに、毎日のようにテキストをアップデートする。

テキストや研修作りのためだけであれば、今更学ぶ必要はない。

しかし、僕は憑き物に憑かれたようにセミナーに参加しまくっている。

そうか。

僕にとって、仕事は焚き火なんだ。

そんなことを考えながら薪をくべて焚き火をしていた。

変な奴なのだ。

以上

]]>
人類70億人、全員ネガティブ http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1126 Sat, 21 Nov 2020 23:04:54 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1126

攻めに強いが、守りに弱い。

相変わらず研修アンケートで凹んだり、Amazonレビューを見て眠れなくなる。

95%はポジティブなのに、たった数%のネガティブコメントに強く反応してしまうからだ。

まぁ、僕に限らず人間は皆ネガティブに注目する。

人類70億人、全員ネガティブなのだ。

20万年前にホモサピエンスすなわち僕たちの祖先が生まれ、現代まで生き延びたのは、ネガティブだったからだ。

できごとのポジティブな側面ではなくネガティブな側面、すなわち危険を探し出し、それに対処する。

猛獣に襲われないように。

崖崩れから転げ落ちないように。

冬の寒さを生き延びるために。

僕たちは四六時中危険に備えて、危険を探して対処することで生き延びてきた。

対人関係でもそれは同じだ。

初対面の人の表情を見て、ゼロコンマ何秒かで相手の悪い点を見つけて危険に備える。

怖そうな表情。

目が泳いでいないか。

頬に力が入っていないか。

そして些細なネガティブな面を見つけては、攻撃に備えて防御を固める。

そうやって、僕たちの祖先は20万年間生き延びてきた。

ネガティブであったからこそ、生き残れたのだ。

しかし、現在、僕たちを脅かす生命の危機は極端に減った。

ホモサピエンスの時代と比べたならば、その危機は限りなくゼロに近いだろう。

にもかかわらず僕たちは、警戒を緩めない。

この人は悪い人ではないか。

攻撃されるのではないか。

常にネガティブセンサー全開で人と接しているのだ。

もちろん、僕もその一人。

何百、何千名のアンケートを毎週のように見ながら、ほんのわずか数%のネガティブコメントだけにびびっと反応してしまう。

しかし、そろそろこれをやめたいな、と思う。

ポジティブへの注目(アドラー心理学では正の注目 Positive Attention)をしていきたいな、と思うのだ。

僕たちが、本能に逆らってポジティブでいるために必要なのは、強い意思と繰り返し行うトレーニングだ。

僕は、研修でそう伝えている。

しかし、もう一つ策はある。

それは、強い信念を持つことだ。

ネガティブなコメントにひるむのは、自分が社会に貢献できていないのではないか、という不安が襲ってくるからだ。

僕たちは、他者、社会に貢献できていると実感するときにだけ勇気が持てる。

少数なネガティブコメントに揺らぐのは、この社会に貢献している、という強い信念が持てていないから、とも言えるだろう。

これまで、誰もやったことがない、カウンセリング型1 on 1を大企業に広めるというミッションを僕は毎日自分に課し、その場をいただいている。

しかし、受講者にはそれを「くだらない」「無用だ」と感じる人がいる。

それは、ごくごく当たり前のことだ。

部下の相談や悩みに対して、これまで上司は指示命令や助言で答えてきた。

できごとを抽象化、一般化し、その構造を捉え、論理的に解決策を考え、その場で指導、助言をして解決する。

そこに感情はない。

カウンセリング型1 on 1のその逆だ。

できごとを抽象化せず、エピソードに転換し具体化していく。

構造を捉えず、コンテンツとコンテキストをそのまま再現する。

論理的にではなく情緒的に、ハートとフェルトセンスを使って感情を感じきる。

解決策を一切考えずに、ただ共感する。

指導、助言を一切しない。

それを「無駄だ」「くだらない」という人は居て当然だ。

だから、ネガティブなコメントはあって当然だ。

その言葉に反応している僕は、まだまだ信念が浅いのだ。

そして、自己防衛が強すぎるのだ。

心理学でいうところのビッグファイブ(因子)の「情緒安定性」が低い僕なので、仕方ないといえるかもしれない。 

しかし、今回の件で言うならば、ポジティブな95%のアンケートに注目するトレーニングをし、信念をもっと深めていきたい。

僕の言葉を待ってくれている大切な人を置き去りにして、ネガティブ反応に奔走されず。

僕の言葉で救われるであろうたくさんの人を放ったらかしにして、自己防衛を優先しすぎないように。

だって、そもそも、コメントのほとんどは絶賛に近い、ポジティブなものなのだから。

]]>
モヤモヤが消えて流れる http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1123 Thu, 19 Nov 2020 02:51:34 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1123 隙さえあればキャンプに行っている。

連日、朝から晩までPCに向かい、研修登壇漬けの毎日だ。

それはそれで、使命感ある、やりがいたっぷりのお仕事だが、さすがに脳の中に、 澱(おり)のような黒いものが積み重なってくる。

それがキャンプに行くと、モヤモヤがきれいに消えて流れるのだ。

AWE体験と言うものがあるらしい。

自然に触れると癒され、心がリセットされる効果だ。

確かに、大自然に包まれ、川のせせらぎや鳥の声を聞いていると仕事を忘れる。

しかし、それだけでは無いような気がしてならない。

キャンプにはもう一つ大切な効果がある。

それは気の置けない仲間と心で繋がる事だ。

僕はキャンプには、一緒にいてほっとしたり、なんだかこの人好きだなぁという人と行く。

だから、キャンプに行って、そんな仲間と心でつながることで癒されているのも大きな効果ではないかと思っている。

レジリエンス(しなやかな回復力)と言う概念がある。しんどく、つらい状況から立ち直る力を指した概念だ。

このレジリエンスを高める方法として様々な研究がなされているが、認知すなわち物事の捉え方を変えていこうとするカウンセリング技法を応用したものが多いように思う。

しかしそのどの研究にでも必ずと言っていいほど、しかも唐突に思える文脈で入っている項目が、人とのつながり、絆である。

つまり人は、つらい体験から立ち直るときに、その出来事に対する認知(捉え方)を変えるだけでなく、その出来事とは一切関係ない、友達や家族とつながることで、力を得て回復していくのだと言う。

だからきっと、僕は、何者かに憑かれたかのように、時間を見つけてはいそいそとキャンプに行くのだと思う。

「小倉さん、最近は研修登壇よりもキャンプに行っている回数の方が多くないですか」と揶揄された。

残念ながら、そうではないが、そう見える位にキャンプにいそいそと出かけている位でちょうど良いのかもしれない。

ソロキャンプもいいけれど、気のおけない仲間と自然を見ながらゆったり過ごす。

AWE効果と絆によるレジリエンス。

脳と心のリセットに、僕にとって欠かせない趣味がキャンプなのだと思う。

]]>
キャンプでスパッと指を試し切り http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1120 Sun, 01 Nov 2020 22:35:38 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1120 「あらぁ。2㎝くらいあるかしらねぇ。血が出たでしょ。どうしちゃったの?」看護師さんに聞かれる。

「昨晩キャンプに行っていて、夜中に酔っ払ってサンドイッチ作ろうとして、包丁でスパッと」
「まぁ。野菜切らないで指切っちゃったのね」
「はぁ。そんなもんです」

30分待たされて初老の男性のドクターが来てくれた。

「キャンプで指切ったんだって?包丁はきれいだった?土とかついてなかった?」

破傷風を心配してくれているらしい。

「新品の包丁で、ビニルが中々取れなくて、酔っ払ってたんで、えい!ってやったらスパッと指まで」

「あぁ。指で試し切りしたわけね」

「いや、そういうわけでは、まぁ、そんなもんです」苦笑が漏れてきた。

看護師さんといい、ドクターといい、外科医の返しの定番なのだろうか。

ギャグにしてもらって、少しほぐれた。

「指はさぁ、動かすと傷口開いちゃうから、縫うよ」

あぁ、やっぱり。仕方ない。日曜に診療してもらって簡単な手術までしてもらえるのだ。平日はずっと塞がっていてやるなら今日しかない。ありがたく受けることにした。

「ちょっと痛いよ」

麻酔の針が肉を通り越して骨まで刺さっているのがわかる。思わず声が漏れる痛さだ。

「ごめんね!ごめんね!」と言いながらぐいぐいと刺してくる。

ドクターの軽口のお陰で深刻さが減り、救われた気分で痛みに耐える。

10分ほどで手術は終了。傷口を縫ってもらうなんて何十年ぶりだろうか。3針縫ったらしい。怖くて傷口は見ることができなかった。

ということで、その日に予定していたギターのレッスンも翌日のジムもキャンセルした。しばらくおとなしくしているしかない。

看護師と医師の軽口。ため口。

に、救われた気がする。プロの技術に裏打ちされた、プロの会話術。

これで技術が下手だったら怒るかもしれないけど。

店員さんが気に入って通うブティックみたいな。

ここのスタッフ気に入ったから、通ってみようかな。

もう怪我はしたくないけど。

]]>
「トラウマはない?」確信犯で行こう! http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1098 Fri, 08 Apr 2016 06:09:37 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1098 「トラウマはない?」確信犯で行こう!

昨晩「幸せになる勇気 自己啓発の源流アドラーの教えⅡ」(ダイヤモンド社)発売記念イベントである著者・岸見一郎先生、古賀史健さんと編集者・柿内芳文さんによる対談を聞きに行ってきた。

対談部分も素晴らしかったが、読者との掛け合いである質疑応答が、スリリングで輪をかけて楽しかった。「Amazonに書いた書評にたくさん星がつくと嬉しい。これは承認欲求なのか?それとも貢献感なのか?100万部以上売れた三人が感じているのはどちらか?」などの質問の数々は鋭く、また、その答えからも多くを学べた。ライブならではのやりとりだ。

そんな中で、私が「お!?」と思ったのは、次のやりとりだ。「本書の中でアドラーがカウンセリング場面でクライアントがこれから話す内容について三角柱を示します。『悪いあの人』『かわいそうな私』『これからどうする』の3つが描かれています。話す際にいずれかを示してから話させる、というものです。岸見先生は実際にこの三角柱を使うことがあるのですか?」

私は思った。「そんなわけはない。あまりに露骨でクライアント(相談者)を刺激し過ぎるだろう」そう思った。しかし、岸見先生の答は違った。「はい。使うことがあります」。私は驚いた。えー、嘘。本当?

しかし、その後の解説において三角柱についての言及はほとんどなく「これからどうする」が大切だ、との主旨が続いた。うがった見方かもしれないが、私は「本当は使っていないのだろう」と感じた。岸見先生がおっしゃりたかったのはこうではなかろうか。つまり「三角柱を実際に使うことはないが、カウンセラーは『悪いあの人』『かわいそうな私』の物語を延々聞いてはならない。一緒に涙してはならない。そうではなく『ではどうするか?』に集中すべきだ」これが主旨である、と。

その際に三角柱を使うかどうかは枝葉末節のことだ。だから、そこはあえて「はい、使います」と言い切ることが大事だ。そんな覚悟をして先生はあえて「確信犯」的に言い切ったのではないか、と推測したのだ。

なぜならば、同じ物書きと講演家の端くれで末席を汚させていただいている私は完全に「確信犯」であるからだ。そして、確信犯であることに揺らぎがない。あたかもアドラーが講演の聴衆から「あなたの言っていることは常識ではないのか?」と質問され、それに対して「常識のどこが悪いのだ?」と返したかのように、私もこう返したい。「確信犯でどこが悪い?」と。

岸見先生が「三角柱を使います」と言い切ったのは(実際には使っていないという私の推測に基づき以下論を展開)決して先生が格好をつけたからではない。先生は聴衆に対して「最も大切なことを届ける」ことを優先したのだ。そのためには枝葉末節な「三角柱」などどうでもいい、と割り切ったのだ、と私は推測する。私もこのような言い切り、単純化を確信犯的によくするからだ。

たとえば私はエリック・バーンによる「過去と他人は変えられないが、未来と自分を変えることはできる」という言葉を引用する。すると、読者のうちの数名が必ずこう混ぜっ返してくる。「過去だって変えられる。過去をどのように解釈・認知するかという視点が変われば、過去の意味づけは変わる」と指摘するのだ。

まさにその通り。私もそう思う。しかし、それを言ってはいけない。少なくてもこの場で言うことは望ましくはない。なぜならば、話が複雑になり「届けたいメッセージが届かなくなってしまう」からだ。だから、私は確信犯的に、それには触れないでおく。シンプルに、伝えたいことだけを「ポン!」とその場に置くのだ。岸見先生がおっしゃった「三角柱を使う」もそれと同じ意味だったのではなかろうか。私はそう解釈した。

それと同じことが100万部を突破した大ベストセラー「嫌われる勇気」の有名な一節にもある。「過去は関係ない。トラウマはない」という有名な一節である。しかし、これは明らかに言い過ぎである。

私がアドラー心理学を学んでいる師匠の有限会社ヒューマン・ギルド 代表取締役岩井俊憲先生に教えていただいたのであるが、アルフレッド・アドラーの次女のアレクサンドラ・アドラー(1901〜2001)はPTSD(心的外傷後ストレス障害)研究の先駆者であり、1942年11月28日のボストンのナイトクラブ・ココナツ・グローブで起きた火災の生存者に対する調査研究の中で、被災者の50%が不安や罪悪感、恐れを抱いている、との研究を発表している。つまりアドラーの次女アレクサンドラは、はっきりと「トラウマはある」と言っているのだ。

私は、本件も岸見先生と古賀さんは、確信犯的にわざと言い切っているのだと思う。実際は「影響因」として過去は存在する。しかし「決定因」としては未来の目的がより強く影響する。過去の影響因100%ではない。そういう意味だろう。しかし、真実を正確に語ったのでは「届かない」のである。そこで「過去は関係ない。トラウマはない」と言い切った。これは演出であり編集である。そう推測するのだ。

上記はすべて、私の勝手な憶測である。そして、私は今も半ば開き直りながら、こう思っている。「確信犯でどこが悪い?」と。まずは伝えたいメッセージをきちんと届ける。その先をさらに知りたい人、「本当に正確なこと」を学びたい人は、その後で学べばいい。私はそう「確信」してものを書いている。

]]>
シャングリラホテル東京 最高級ホテルに泊まるセレブに共通する振る舞い http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1090 Fri, 25 Mar 2016 03:40:11 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1090 シャングリラホテル東京 最高級ホテルに泊まるセレブに共通する振る舞い

スクリーンショット 2016-03-25 12.27.38

桐山秀樹氏により2014年5月5日にPRESIDENT Online へ寄稿されたコラムがふと目にとまった。それによれば、最高級ホテルに泊まる世界中から集まるセレブたちには共通する振る舞いがあるのだという。

(以下、同コラムから引用)
東京駅八重洲口にあるシャングリ・ラ ホテル 東京の特別室階ホライゾンクラブのマネジャー、コンシェルジュを務める田中友子氏が挙げたエピソードは以下だ。

シャングリラコンシェルジュ

◉ ビジネスで来日したある外国人客が田中さんにこう依頼をした。「僕はこれから会議なので、その間、妻が楽しく過ごせるように何かプランを立ててくれないか?」エグゼクティブの多くは妻に細かな心配りをする。

◉ 「おいしいケーキ屋さんはどこですか?」と田中さんに質問をし、紹介してもらった外国人客は、戻ってきた時に「すごくおいしいケーキが買えました。ありがとう。これはあなたたちに」とお土産を持って帰ってきてくれた。

◉ 世界で一流と呼ばれる人ほど、チェックインの時のフロントや、ラウンジのブッフェに客が数人並ぶことがあると、たとえ自分が先に着いていたとしても「After you」(お先にどうぞ)と順番を譲る。

◉ セレブと言われる多くの宿泊客は帰国後に、手紙やメールで「誰々がこのようなことをしてくれた。それをお伝えしたかった」と感謝を表してくれる。

これを執筆者である桐山氏は、こう表現している。

「・・・・・・つまり、何事にも『心の余裕』が現れている」と。

確かにその通りだ。しかし、私は、逆もまた真なり、と思う。

お金に余裕があるから、心の余裕がある、のではない。
心に余裕があるから、お金に余裕がある、のではなかろうか。

心に余裕がある、すなわち、他者を喜ばせよう、とする。それを家庭で、友人に対して、仕事で繰り返せば、その人の人間関係と人生は豊かになるに違いない。家庭で、友人間で、仕事で、多くの人に助けられるようになるだろう。そうすれば、自然と、ビジネスでも成功し、お金に余裕ができる。

お金持ちだから、優しく心に余裕があるのではない。
優しく心に余裕があるから、お金持ちになったのではないか。私はそう思う。

私が敬愛する鍵山秀三郎先生はこうおっしゃっている。

「幸せだから感謝するのではない。
感謝するから幸せになるのである」

「与えられた枠は、使い尽くさないように気をつけています」

「自分にとって有利なことは、できるだけ控えめに。
反対に、自分にとって不利なことはできるだけ多めに」

そして、私に経営者としての基本を教えて下さったソースネクスト社の松田憲幸社長はこうおっしゃった。

「お金があるから寄付するのではない。
寄付をするからお金が入ってくるのです」

(引用)小倉広メルマガ vol.234 お金を貯め込むと死の海になる

心に余裕がある振る舞いをできるようになりたい。
お金持ちになるためではなく、自分自身が幸せになるために。周囲の人を幸せすることで自分も幸せを感じるために。そして、何より、粋で上品な大人になるために。そんなことを思った。

編集後記

本コラムの元となった桐山秀樹氏は「おやじダイエット部の奇跡」などの著作で糖質制限食を世に広めた功労者であります。しかし、同氏は先日、突然死をされてしまいました。これをもって、テレビや雑誌などは一斉に「糖質制限は危険」との論調を展開されました。代表的な意見はこちらです。

一方で、私が信奉し、先月、お食事をご一緒させていただいた糖質制限食のカリスマ、高尾病院の江部ドクターはご自身のブログで「桐山氏は最初に病院に行った時点で、すでに消えない借金として動脈硬化が心臓と脳にあった可能性が極めて高い」「桐山氏は、最近4〜5年間は糖質制限食ではなかった」と述べています。

真実は定かではありませんが、私は健康のために、引き続き糖質制限食を続けています。健康や食事は様々な説があり、医学的にも解明されていません。私はこれを宗教だと思っています。自分が信じることを自己責任でやればいい。他人に余計な説教や口出し、強制はしない、させない、と思っております。皆さん、信じる道を進みましょう。では、次回もお楽しみに!

]]>
自発的特性転移「人の悪口を言う人が嫌われるのはなぜか?」 http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1087 Fri, 18 Mar 2016 04:19:19 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1087 20160105_040730000_iOS

恥ずかしながら、かつて私は人の悪口をよく言っていたものだ。「あの人は意地悪だ」「あの人はずるい」。すると、不思議なもので、悪口を言っている私までもが嫌われた。

「小倉さんは人の悪口ばかり言っている」「言っている小倉さんだって意地悪だよね。ずるいよね」

ところが、最近は、逆の現象が起きて困っている。人の悪口を言うのをやめた私は、人のいいところを見て、いいところを話すようにした。「あの人はいつも優しいね」「あの人にはとても助けられた」と。すると、困ったことに逆に誤解されるようになってきたのだ。

「小倉さんは優しい人ですね」「小倉さんは人を助けているのですね」

少し嬉しいけれど、これは困る。私はそんなにいい人ではない。ずるいところもたくさんある。できていないところだらけだからだ。

人を悪く言うと、悪口を言っている本人自身が、相手から悪い人だと思われる。
人を良く言うと、ほめている本人自身が、相手からいい人だと思われる。

このような現象をオハイオ州立大学の心理学者ジョン・スコウロンスキ氏は自発的特性転移と呼んだ。なるほど。私自身の実体験からも、うなづける理論だ。

では、実際、本当にそうなのだろうか? あくまでも私の実体験として、私の主観として振り返ってみた。すると。

人の悪口を言う人が、悪い人である確率は高いような気がする。(もちろん100%ではない)
人をほめている人が、いい人である確率は高い気がする。(もちろん100%ではない)

そんな結論に至った。だから、自発的特性転移が起きるのは理に適っているし、まんざら外れてもいない、と思うのだ。

*ここで、いい人、悪い人、という定義自体が曖昧、かつ単なる主観であり客観ではないのだが、それを言い出すと議論がややこしくなるので割愛し「そういうもの」として論を進める。

人は自分がやったことがないことはよくわからないし、やったことがあることはよくわかるものだ。たとえば、私は鍵山秀三郎先生に教えていただいて、トイレ掃除を始める前は、きれいなトイレを見てもなんとも思わなかった。しかし、自分でトイレ掃除を始めてみて、その大変さがわかった時に、きれいなトイレを見ると「うわぁ。さぞや大変だったろうなぁ。こんなに丁寧に汚れを取って。大変だったろうなぁ」と感じるようになったのだ。

つまり、人の良い面が見える人というのは、自分も同じだけの苦労や体験を積んでいる人なのだ。相田みつを先生の有名な詩

「あなたの心がきれいだから、なんでもきれいに見えるんだなぁ」

はそれを映しているように思えてならない。

同様に、人の悪い面を見ている人は、自分がいつも同じようなことをしたり考えているからそればかりが目に付くのだろうと思う。自分がずるをしている人は他人のずるさに敏感だ。自分が意地悪をしている人は他人の意地悪に敏感だ。そういうことではなかろうか。

しかし、このような話を講演でさせていただいている時に、聴講者の方からこのような質問を受けたことがある。
「小倉さん。小倉さんはそのように言いますが、私は絶対にずるいことはしていません。天地神明にかけて、ずるいことはしない、と決めているからです。しかし、他人のずるさはすぐに目につくし、許せません。これはどういうことでしょうか?」

私は答えた。
「私の専門ではなく、あくまでも聞きかじりでしかありませんが・・・・・・。ユング心理学ではそれをシャドウの投影と呼んでいるようです」。そして、以下のように続けた。

シャドウ(影)とは、自分の中に存在する弱点を受け容れずに抑圧し、ないものとして見ないようにしていると、自分が抑圧したものを表に出している人を見たときに強い怒りを感じる、というものだ。

例えば、本当はずるをして、楽をしたいと思っているが、それはいけないことだと自分を抑圧している人は、ずるをしている人を見ると、自分が抑圧しているシャドウを相手に見て、強い怒りを覚え悪口を言ってしまうのだ。「自分はこんなにガマンしているのに、それを堂々とやっている人がいる。許せん!」という具合だ。これをユング心理学では投影と呼ぶ。

では、どのようにすればいいのか、と言えば、抑圧をやめること、自分の中にずるい気持ちがあることを認めることが重要だ、とユング心理学では考える。抑圧や歪曲、否認をやめ、自分にもずるい気持ちはあるよなぁ、と受け容れることで、そのシャドウが人格に統合され、悪さをしなくなる。つまり、ずるい人を見ても、強い怒りを感じずに「そういう気持ちもわかるなぁ」「自分にもそういう気持ちはあるよなぁ」と受け容れられるようになるのだという。

だからといって、その人がずるをするとは限らない。自分にもある弱点、シャドウを受け容れても、行動レベルで自分を律し、ずるをしない人はたくさんいる。いや、その方が多いだろう。しかし、自分のシャドウを見ずに抑圧している人は「あの人はずるい!」と糾弾しがちだ。一方で自分のずるさを受け容れ統合したプロセスを経た人は相手への怒りを強くは感じず「良くないねぇ。でも、そんな気持ちはわからんでもないよ」と泰然自若の姿勢でいられるのではなかろうか。

このように考えると、先の質問をされた方は、行動レベルではずるをしていないものの、自分にずるさがあることを認めたくない、と否認し抑圧している人ではなかろうか、と考えられる。もしも、それを受け容れ、自己の人格に統合できていたならば、強い怒りや糾弾の気持ちが起きないだろうからだ。このように考えると、ますます自発的特性転移が理に適っていることがよくわかる。

悪口を言う人は、言っている本人も同じような行動を取っているか、もしくは、心の中に同じ気持ちを抑圧している人である確率が高い。
人をほめる人は、言っている本人も同じような行動を取っているか、もしくは、心の中に同じ気持ちを持っている人である確率が高い。

さて、あなたは、どちらの人間だろうか?
さて、私は、どちらの人間だろうか?

そんなことをつらつらと考えた。

編集後記
東京(最終週の土曜日)、関西(第一週の土曜日)、名古屋(第一週の土曜日)で毎月開催している、参加費無料の古典読書会「人間塾」では、まさにユング心理学を学んでいます。3月の課題図書は「ユング心理学入門」川井隼雄(岩波現代文庫)、4月の課題図書は「ユング 分析心理学」C.G. ユング(みすず書房) です。ご興味のある方はぜひ、ご参加下さい!

なお人間塾でこれまで取り上げてきた50冊以上の課題図書はこちらへ。私のミニ書評つきです。こちらもぜひお目通しください!では、次回をお楽しみに!

]]>
ブレない自分をつくる「古典」読書術 週間第一位! http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1081 Wed, 09 Mar 2016 01:23:04 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1081 【 御礼 】丸善丸の内本店で週間第1位

丸善丸の内本店ビジネス書1位①

人間塾の仲間たちや皆さんの応援、そしてお力添えをいただいた丸善丸の内店様、日刊工業新聞社の皆さんの多大なるご努力のおかげ様で、先行販売させていただいた丸善丸の内店様で、週間ランキング第一位です。

幸せになる勇気が第二位。恐縮です。
丸善丸の内本店ビジネス書1位①

20160225_231615000_iOS

]]>
カインドオブブルー/マイルスデイビス スタミナ定食、ニシンの塩焼き定食と http://blog.ogurahiroshi.net/archives/1061 Tue, 08 Mar 2016 13:04:07 +0000 http://blog.ogurahiroshi.net/?p=1061 kind of

渋い大人になりたかった。

それならば、ジャズと映画だ。渋い大人は必ずジャズと映画を語れるに違いない。大学一年の僕は、根拠なくそう思っていた。

新潟から東京へ出てきて4ヶ月。僕は京王線と井の頭線が交差する、渋谷と新宿からそれぞれ10分の明大前に住んでいた。駅から徒歩12分、風呂なし、エアコンなし家賃3万5千円のボロアパートである。

唯一の楽しみは、銭湯帰りに寄る学生向けの定食屋とレンタルレコード(CDではない)屋だった。

定食屋での定番と言えば、にんにくががっつり入った、脂身だらけの安い豚の細切れでつくるスタミナ焼き定食と、大きさでは他の魚に決して負けない巨大なにしんの塩焼き定食だった。

そこにビールを足すかどうか、が大問題だった。財布に二千円以上あればビールを頼む。なければ水で我慢する。おばちゃんが厨房のおっちゃんに伝えるだみ声を今でも覚えている。「スーターミーナーいっちょおうー」「にーしーんー」無表情のおばちゃんが、やけに大きな声を張り上げていた。食堂では、いつもテレビがついていた。

で、ジャズだ。

僕は渋い大人になりたくて仕方がなかった。でも、ジャズなんてこれまで聴いたこともない。好きなアーティストもいない。トランペットとテナーサックスの違いもわからない。そんな調子だった。

僕はまるで、広大な砂漠にぽつんと一人取り残されたような気分だった。いったい、どっちの方角に向かえばいいのか?どこまで歩けばたどりつけるのか?皆目見当もつかなかったのだ。

だから、僕はレンタルレコード屋に行っても、なじみが深いロックやポップスばかり聴いていた。ニック・カーショウとかアズテック・カメラとかエルビス・コステロとか。そして、借りてきたLPレコードを手に、定食屋でスタミナ定食かにしんの塩焼き定食を食べるのだった。

ある夏の暑い暑い日。明大前駅は地面からの照り返しで焦げるような暑さだった。試験が終わり、やることのない僕は喫茶店に逃げ込むお金もなかったので、とりあえずレンタルレコード屋に駆け込んだ。熱風から逃れるのが目的。エアコンの風に当たるためにとりあえず逃げ込んだのだ。

そこで、このアルバムに偶然出会った。その時、店で偶然、このアルバムがかけられていたのである。何の曲か?誰が演奏しているかもわからない。しかし、そのアルバムは、それまで聴いたどんなジャンルの音楽とも違った。そして、何よりも僕のイメージしていた大人の渋いジャズそのものだった。いや、想像を超えていた。とにかく、かっこよかった。例えようもなくかっこよかった。

もしかしたら、ギンギンに冷えていたエアコンの風のせいかもしれないけれど、僕は背筋がゾクゾクと寒くなった。そして、レンタルレコード屋の店長さんに尋ねた。「これは何というアルバムですか?」と。

「カインド・オブ・ブルー。マイルス・デイビスです」

僕はそのまま、そのレコードをターンテーブルから外してもらい、家へと持ち帰り、少し値段が高いマクセルのクロームテープにダビングをした。そして、少しでも音の良いLPレコードで何度も聴いた。どの曲を聴いても、鳥肌が立った。エアコンのない蒸し暑い六畳間で、扇風機がブーンと回っている。僕はビールを買う金がなかったので、水道水に浸す水出しパックでいれた麦茶を飲みながら、ばかみたいに、繰り返し何度もレコードに針を落とした。これが、僕の幸運なジャズとの初めての出会いである。

僕は、後に知ることとなる。このアルバムこそがジャズの歴史を変えた、そして、全世界で1,000万枚ものセールスを記録した、モードジャズの完成形であることを。そして、このアルバムで何曲かの作曲をし、氷のように冷たく、繊細で、壊れてしまいそうなガラスのようなピアノを弾くジャズメンこそが、後に僕のフェイバリットとなるビルエバンスであることを。

それから、僕の時代遅れのジャズ喫茶通いが始まった。大人への第一歩が始まった。

]]>